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粗暴犯とは 人はなぜ暴力を振るうのか?

粗暴犯とは


粗暴犯とは、直接的な暴力によって他人に損害を与えた犯罪者のことである。主に暴行、傷害、脅迫、恐喝、凶器準備集合の罪を犯した者を指す。


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フロイトは「トーテムとタブー」の中で、ある原始部族の成り立ちの神話について次のように述べている。

その部族では、強大な力を持つ年長の男性(原父)が存在し、その男性が部族内のすべての女性を所有し、部族全体を支配していた。そのため、部族内の年少の男性たちは原父のように女性を所有したいと願っても、所有することはできなかった。そこである日、年少の男性たちは共謀して原父を殺害することにした。年少の男性たちは勝利を勝ち得たかに見えたが、この父殺しによって年少の男性の中に罪悪感が芽生え、原父に対して両価的な感情を抱くようになった。このようにして、男性たちは平等な存在になり、お互いの暴力を禁止することで共同体が成立した、という物語である。



フロイトは、このような父殺しとそれに基づく共同体の成立が、社会秩序や道徳の基盤であると指摘した。ここで注目すべきことは、暴力を抑え、秩序ある共同体を作り出すためには、父殺しという根源的な暴力が存在していたという点にある。いわば、攻撃性は必要なものであり、正常な自我には攻撃性を含むことになるといえるかもしれない。

一般的に「窃盗」が秘密裏に行われる情緒的関与の乏しい行為であるとするなら、粗暴犯は、まるで正反対の暴露的な情動に強く彩られた行為と言える。では、なぜ「本来備わった」攻撃性を、わざわざ他人に向ける必要があるのか。


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粗暴犯の暴力の背景には、幼少期に受けた虐待が影響しているとされる。虐待の被害というつらい出来事、そこから生じる認知や情動は、切り離されて意味づけられることがないままこころの何処かに置いておかれる(解離)ことになるが、それがあるきっかけで目を覚まし、暴力という破壊的な関わりとなって現れることになる。アビー・スタイン(2012)は、児童虐待などの幼少期の外傷体験と、成長後に再び虐待の被害者になったり、あるいは逆に粗暴犯に走ったりすることが関係していると指摘している。また、ギリガン(1996)は、暴力には、暴力を振るう側が感じている脅威を緩和する目的があるという。暴力を奮っているときだけが、内面にある過去の傷つきから逃れられるの瞬間であり、だからこそ暴力から離れられないのかもしれない。



暴力を振るう人のこころの中には、過去に暴力を振るわれた被害体験を根付かせており、それによって知らずのうちに暴力を繰り返すことになる(反復強迫)。同時に、被害者から加害者なることで「癒やし」を得るだけでなく、加害者に同一化することによって万能感を生じさせているとも考えられる。そこには年少の男性らが抱いた罪悪感は存在しない。松木(2016)は、憎しみや羨望や抑うつの感情を、言葉を暴力的に使って、ときには腕力による暴力行為を使っても、みずから排泄して他者に押し込むやり方をなしていくと述べる。暴力を振るうことによって、子供の頃に感じた暴力を振るわれたときの無力感や弱小感、屈辱の感情などを、自分のこころから相手のこころに押し込んでいるのかもしれない。そこには暴力の連鎖から逃れ、暴力という「有効な」手立てを見せられている印象すら受ける。積極的に原父を殺害し、原父になろうとする年少の男性がそこにいるように感じる。

財産犯が、内面の空虚感や寂しさを「もの」によって補おうとする犯罪ならば、粗暴犯は、過去の暴力に縛られ、自ら暴力を振るう側になることで必死に自分の弱さから目を背けようとする犯罪といえるかもしれない。


引用・参考文献